スペシャルインタビュー

text by SETSU
photo by 浅田恒穂

衣裳協力 ムッシュ榊 /(有)ホァンシー

透明感のある声で魅了する中国の歌姫・ユウエンさん

ホテルのロビー全体に満ちあふれる人々のざわめきを、その声で一瞬にして静謐に変えてしまった中国の歌姫・ユウエンさん。「透き通った歌声」という表現は使い古されたクリシェ(決まり文句)ですが、他に言いようがないほど彼女の声はどこまでも透明で、草原を渡る澄み切った風のようにわたしのカラダを優しく包み込んでくれました。そんな「透き通った歌声」の持ち主・ユウエンさんとは、一体どんな女性なのでしょうか? その歌声は何処から生まれてきたのでしょうか? 幸運にも直接お会いして、お話をうかがう機会に恵まれました。

音楽系の大学を目指して猛烈な受験勉強

ユウエンさんのご出身は、中国・四川省の重慶。お母様は民謡の歌手、お父様は楽器演奏が趣味という音楽一家で育ったそうです。彼女が本格的に音楽の道へ進もうと思ったのは、高校1年の終わりだったと言います。

「別に音楽系の高校ではなかったんです。でも、新しい若い女性の先生がいらして、音楽に興味のある生徒を十何人集めて、みんなで音楽大学を目指そうということになったんです。それで高校2年からは普通の生徒とは別の教室に移動して、自習などもやらなくていいからということで、ひたすら音楽の練習。朝の6時にはもう練習をはじめて、お昼休みもひたすら練習しました。学校ではオルガンで練習をしてたけど、ピアノが家に無いから、先生の家に行って、みんなで順番に練習させてもらっていました」

聞いているだけでも、そのハードな練習ぶりが伝わってきます。まさに音楽漬けの高校生活。結局、最後まで付いてこられたのは10人に満たなかったと言います。ところが、それだけではありません。ユウエンさんは、さらに個人レッスンも受けていたそうです。

「お父さんの知り合いの、知り合いの、そのまた知りあいの男性の先生に、週末に個人レッスンを受けていました。その先生は、元々、オペラの歌手。教育者じゃないから、凄く厳しかったんですよ。休憩なしで、4時間歌いっぱなし。体力がそんなになかったから、練習が終わってもすぐには帰れない。歩く元気が残ってないんです。しばらく階段で休んでから、やっとバス停にたどりつく。でも、バスが来てもすぐには乗れない。なぜかと言うと、座れないから! もう、お腹もペコペコで歩くこともできない」

そんな毎日に嫌気がささなかったのでしょうか?

「試験までに日がなかったし、当時の自分はまだ真っ白でしたから。2人の先生の言うとおりにやりました。反抗しようという気持ちも全然なかった」

とつとつと語り続けるユウエンさん。ポジティブという言葉だけでは、そのがんばりを説明できないような気がしたのですが……。う〜ん、なんだろう?

糸の切れた凧が舞い降りた先は日本

そんな努力の甲斐あって、無事、中国国立西南師範大学へ入学(ちなみに他の学校も合格していたそうです)。でも、西南師範大学は総合大学で、いわゆる音楽家養成の学校ではなかったというのが不思議です。

「受験した大学を全部受かって、どこへ行こうかすごく悩みましたが、教えてくれた先生が西南師範大学の出身だったことと、受験したときに学校の入口の庭がとても素晴らしかったので、その中で勉強できたらいいな、と」

大学を卒業して、最初は音楽の先生になったとか。

「重慶の音楽学院の先生を1年3ヵ月くらい。その頃、中国ではちょうど改革開放があって、あちこちでいろんなオーディションがあったんです。いくつかのコンクールに出場して、賞をとることができました。まわりのみんなは留学するため、TOEFLの勉強をしていました。私も北京で全国コンクールを受けるか、それとも留学するかで悩みました。台湾に母の知人の音楽関係の方がいたので、資料請求しました。他にもいろいろな国に請求を出したんですが、ひとつも返事が返ってこなかったんです」

そんななか、唯一返事があったのは、なんと宇都宮からだったそうです。

「"あいうえお"の勉強をする時間もないですよね。日本がどういう国かもぜんぜん知らない。ただ日本のドラマは、毎週楽しみに見ていました。高倉健さんが出ているドラマで、札幌が舞台。そのおかげで、日本はとても寒い国だと思っていました。英語だったらまだ少しはわかるけど、"こんにちは"と"さようなら"しか知らなかったですよ。"おはようございます"だって、長くて分からなかった。だから、日本は短期留学のつもりだったんです」

とりあえずのつもりで、日本へ行くことになったユウエンさん。でも、母親と別れるときにかなり淋しい思いを経験したそうです。

「飛行機に乗るのが初めて。まず、お母さんと一緒に北京まで電車で34時間。そのときはなんともなかったのですが、いざ空港に着いて、お母さんと離れるという瞬間、もう、どん底でしたね。自分のイメージとしては、凧と一緒。糸がつながっている間は、自由に高いところ、遠いところを飛び回ることができる。でも、糸が切れちゃうと、どこに飛んでいくか、どこに落ちるか分からない。まさに、その糸が切れた感じ。もう、泣き崩れましたよ。周りの人はみんな楽しくて笑いが止まらないという感じなのに、私だけが涙。おまけに、どうしてあなたは泣いてるのと言われると、ますます涙が出てきてしまうんです。みんなは慰めるつもりでどこに行くのか聞いてくれるのですが、説明できないから、余計泣けちゃう(笑)」

そんな彼女を支えたのは、「一度きりの人生なんだから、やりたいことをやろう!」という強い意志。その想いを胸に日本に降り立ったのでした。

宇都宮から東京藝大へ

来日して、いきなり宇都宮というのも大変だったのではないでしょうか。どんな生活をしていたのか興味がわきます。

「結局、宇都宮では音楽活動がまったくできなかったですね。音楽の仲間もいない。ただ毎日、日本語の勉強。1年たった頃に、帰るつもりでした。先が見えないんですよね。別のところに留学しようか、中国に帰ろうか迷っているときに、留学生仲間から宇都宮大学に音楽科がありますよと聞きました。さっそく面接に行ったら、中国の大学を卒業したということで研究生として合格通知が来たんです。また音楽ができる、仲間もできると思ったら、気分が全然違ってきました」

晴れて宇都宮大学音楽科の研究生として迎えられたユウエンさん。しかし、それはユウエンさんにとって、たんなるワンステップでしかなかったようです。

「大学には行っても、自分の歌の勉強ができるのは週1回だけ。後は講義を聞いたり、先生のアシスタントをしていました。教えられるんではなくて、教える役。師範学校を出ていたので、それは大丈夫だったのですが……。ママさんコーラスのお手伝いやアルバイトもしました。日本の方と接することができて、いい思い出になりましたね。先生には、高音の天才だと言われましたよ。そのまま宇都宮大学の大学院に進んだらと薦められたのですが、そこには先生が2人しかいなくて、ソプラノは教えてもらえない。それで東京のほうも調べてみようということになって、私立は学費が高いから断念して、いろいろ探していたら千葉大学と東京藝術大学しかなくて……。しかもタイミング的に受けられるのは東京藝術大学だけでした」

藝大って、相当難しいはず。そのための勉強を何年もしている人でも、簡単には受からないと聞いていますが、その藝大の大学院にユウエンさんは見事に合格。彼女は多くを語りませんが、半端な勉強ではなかったはずです。

大学院に入学してからも、彼女の"一生懸命"は続きます。ハードワークがたたり、在学中に倒れたとか。藝大では大学院生がみんな倒れるというわけでもないでしょうが、一体どうしたのでしょうか?

「2回も入院したんですよ、慢性胃炎で。あんまり忙しくて、食欲がなくなるんですよ。病院に行ったらそのまま入院でした。のどの入口のところに炎症があって、スムーズに食べものが入らないんですよ。飲みものは大丈夫なんですが、食べものは飲み込めない。なんでそんなに忙しかったかというと、結局、外部から来たから授業が全然わからない。藝大が普通の学校じゃないっていうのを実感しました。しかも自分の中で受けたい授業がたくさんあって、それをたくさん選びすぎた。そのおかげで、1週間の間に何本もテストがある。それをクリアしなくては話にならない。先生もとにかく厳しくて。説明もしてくれなくて、ただ、もう1回、としか言わない。その繰り返しで倒れてしまったのです」

中国と日本の架け橋となって歌っていきたい

大学院を卒業した彼女を待っていたのは、日本での歌手という生活でした。でも、どんな経緯で歌手になったのでしょうか。

「大学院を修了して、最初はドクター課程を勧められました。奨学金もいただけるし、そうしようかと思いましたが、知り合いの男性が6年かかったというのを聞いて、ちょっと(笑)。勉強の大変さも身をもって知っていましたから、これからさらに6年は辛いな、と。短期留学でイタリアに行って、オペラ科で1年、様子を見ようかとも思いましたが、オペラは10年勉強しても終わらないな、と考えているうちに、知り合いの人から声をかけられたんです。ラジオCMで井上陽水さんの『夢の中へ』を中国語で歌ってほしいって……」

ユウエンさんはその曲を知らなかったのですが、自分で歌詞を中国語に訳し、ゆったりとした感じにアレンジをして歌ったそうです。それを偶然、聴いていた方に声をかけられたのがきっかけとなって、現在の事務所に所属するようになったのだとか。

「特に日本人の皆さんに反響が大きかったのは、テレサ・テンさんの歌を歌ったときですね」

また、幼少のころから親しんできた曲の数々が実は日本の曲だったということもあり、コンサートでは日本の歌を必ず入れるようにしているそうです。短期留学のつもりでやってきた日本ですが、気がつくとすでに10年以上。ユウエンさんと日本の強い結びつきを感じました。

ひたむきに走り続ける彼女の話は、すべてが驚きでした。しかしそれ以上に驚いたのは、辛いという素振りをまったく見せずに、走り続けてきたことを生き生きと語ることでした。不思議なことですが、ユウエンさんのお話をうかがっていると、こちらがほっこりと温もってきます。彼女の「透き通った歌声」を聴いて、もっとはかない雰囲気の方かと思っていましたが、その反対にすべてを包み込んでくれる太陽のような方でした。

「中国と日本の架け橋となって歌っていきたい」

これからの夢についてお聞きすると、そんな答えが返ってきました。周りを包み込むような温もりと優しさを持つユウエンさんなら、きっと架け橋となって歌い続けてくれることでしょう。

ユウエンoficial site http://www.youyan.jp/